山田文庫の名前を知らなくても、旧中山道の常盤町交差点を通った時に目 に入る、古い趣のある煉瓦塀が気になっていた方は多いと思います。
その煉瓦塀の内側にも、明治時代以前の木造建築である母屋、江戸末期に長野で建てられたものを移築したと伝えられる茶室、2棟の土蔵など、魅力 溢れる建物が、まるで、その中だけが明治時代にタイムスリップしたかのように、今でも現役で使われています。
この建物は、代々山田家の当主が暮らした家で、明治時代以前に建てられたと伝えられています。
山田勝次郎の義父(とくの実父)山田昌吉は、自邸の敷地内に、長野県の江戸末期に建てられた茶室や、旧茂木 銀行の取り壊しになった煉瓦塀を移築するなど、文化財の大切さがあまり認識されていなかった時代に、膨大な手間と費用をかけて文 化財の保護に務めた、先見の明のある人物だったと推測されます。
家と共に、その思想を受け継いだ当文庫創設者の山田勝次郎と妻とくも、昭和を迎えて、近代的な建物がもてはやされ始めてからも、この場所で父か ら受け継いだ家を大切に守りながら暮らしました。
そして、平成になり、山田文庫の建物は、文化財としての価値が認められ、平成10年(1998年)には「第 3回高崎都市景観賞」受賞、平成12年(2000年)には「高 崎市景観重要建築物等」に指定されました。
平成30年度は生垣やブロック塀、駐車場入り口、令和元年度には東蔵、茶庭、令和2年度には大きな目標であった主屋の耐震改修を実施しました。
このページでは、そんな古き良き時代の魅力溢れる、山田文庫の建物の魅力をお伝えします。
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煉瓦塀
煉瓦塀
煉瓦塀の解説
煉瓦塀は、大正時代、当時、高崎市九蔵町にあった旧茂 木銀行の煉瓦塀を解体した時に、茂木銀行高崎支店の支店長を務めていた山田昌吉が、それを自邸の敷地内へ移築したと伝えられて います。
この煉瓦塀は、ドイツ規格サイズ 220×105×55mmの煉瓦を、イ ギリス積みで積んでおり、アーチの部分には目地の狂い等がほとんどなく、当時の職人の技術の高さを物語っています。
煉瓦の種類や工法、特にアーチや軒の装飾の形態は、現在では非常に貴重なものであり、文化的に高い価値があります。
尚、移築の方法は伝わっていませんが、解体の痕跡がほとんどないことから、煉瓦を1丁1丁、丁寧に分解して、使えるもののみを選んで運び、また 現在の場所へ積んでいったのではないかと考えられています。
その方法は、現在では到底考えられない程の膨大な時間と経費がかかったと考えられることから、山田昌吉の、文化財への 意識の高さを窺い知ること ができます。
主屋
主屋
母屋は、山田家当主代々の自邸であり、山田勝次郎・とく夫妻もここで暮らしました。
二階建ての土蔵造りで、
座敷部分の形式は、町屋というよりは、武家屋敷の系統です。
築造されたのは明治以前と言われていますが、詳しい年代は分かっていません。
昭和4年(1929年)に、瓦葺寄 棟平屋部分が山田昌吉によって増築されています。
2階部分は、四方無節・四 方柾の柱、欅の柱、欅の1枚板の建具などの非常に貴重な木材を使用しており、文化的な価値が非常に高いとされています。
茶室
茶室
茶室の解説
長野県小県郡から、江戸末期に築造された茶室を、明治時代に山田昌吉の父(とくの祖父)、山田永五郎が移築したと伝えられています。
数寄屋風の造りで、珍しい陶 製の模様のついた、洒落たトイレも当時のまま残っています。
又、山田昌吉は、当時、高崎経済界の親睦組織である「同気茶話会」の主要メンバー で、この茶室では、高崎市の現在にも深く影響を与えている、重要な会合がしばしば行われていたと伝えられています。
「同気茶話会」とは
明治26年(1893年)に創立された群馬県高崎市の経済界の親睦組織。
サロン的な活動に留まらず、次第に、そこでの話題を実現に移す実行団体としての性格を持つようになりました。
市立図書館の設立、信用組合や貯蓄銀行などの創立などの市民生活に密接に関わる事柄から、後には、政治運動にも関わってゆくようになりまし た。
土蔵
土蔵
土蔵は母屋の裏に、2棟あります。
いずれも明治以前に築造されたと伝えられており、切 妻瓦葺き漆 喰塗二階建です。
現在では、母屋に入りきらない貴重な本が多数収蔵されています。
平成14年(2002年)に改修工事を行いました。
参考図書:山田文庫30周年の歩み/あさを社刊